こんにちは、40代オッサンtrrymtorrsonです。
2024年、今年50歳になります。
今年は絶対やってやる、人生逆転してやるなどと言って、新年に臨みました。
1月下旬になり、やる気が急激に減少。
メンタルガタ落ち、イライラ不安定おじさんになってしまいました。
鳥人間コンテストで、急に浮力を失って、琵琶湖湖面に急降下激突するようなものです。
年末から年始にかけては、これまでにないほど気力が充実していました。
スティーブ・ジョブズになるんだ!
「点を打ちまくれ!」
「Connecting the Dots!」
そういうかけ声のもと、孤独になって異端になって、1人プロジェクトを進めよう。
しかし、頭のなかは混乱していました。
1人プロジェクトを多角的に進めようとしましたが、節分の日に「鬼になる」と決意した時点で、すでに空回りしていました。
大きな不安や不満が2つありました。
ひとつは、我が家の家計が非常に悪化していること。
ここ数年、経済的な自立を基盤にして精神的な安定を得ることを目標にしてきたのに、結果として全く実現できなかった。
貯蓄に励むのではなく、自分や家族のやりたいことに漫然と散財してしまった。
それはそれで良いのですが、世間が「新NISA」と「空前の株高」に沸いているのに、元手がないので波に乗ることができない。
もう一つは、日商簿記3級の2回目の挑戦が目前に迫ってきて、プレッシャーがかかってナーバスになっていること。
簿記3級といっても、難しいんですよ。
舐めてはいけません。
高校生以来の久しぶりの受験勉強。
平日に勉強時間を1時間以上捻出するだけでも大変ストレスがかかる。
これほどナーバスになるとは思わなかった。
家計の問題に戻りますが、年が明けて妻が、3人の娘に、ベッドや学習机を買ってやりたいと言い出しました。
いや、僕だって買ってやりたいですよ。
でも、今まったく口座にお金が入ってないんです。
12月に期末のボーナスが出たばかりなのに、もう使い果たしてしまったんです。
お金がないのに、どうやって10万円前後の買い物ができるのか?
そして妻と喧嘩して、僕はもう心が折れて匙を投げました。
その際、「鬼になる」の記事を書いたんですが。
それからずっと、モヤモヤ、イライラが収まらない。
妻と話すのが面倒になりました。
妻のキンキン声を聞くのが生理的に受け付けなくなりました。
彼女、教育関連の情報収集に熱心なんですが、教育資金をしっかり貯めなければ、子どもに選択肢を用意してやることができないということが分かってない。
さらにメンタルが負のスパイラルに陥ってしまう出来事が重なり、絶不調。
些細なことばかりなんですけどね。
昨年から週2回欠かさずスポーツクラブのスイミングに通っていて、非常に体調やメンタルが安定していたんですが、ここ最近になって、利用者が増えて使えるコースが無くなってしまった。
やる気が無くなってしまって、スイミングはいったん休会にしてしまいました。
男性的な活力を下支えしていた「男性ホルモン補充療法」。
これもずっと月1回定期的に病院に通ってやってもらっていたのに、最近になって、テストステロンが入荷しなくなって、治療を受けられなくなってしまった。
娘たちはインフルエンザにかかって長く休んだり、学校自体が休校になってしまったり。
グダグダで生活リズムが狂いだした。
いろんなものが停滞してきた。
職場でもマウントを取られまいと、ずっとイライラ戦闘モードが抜けなくなってしまった。
上司に2回ほど盾突いてしまった。
思考がしなやかさを失って、悪い方に悪い方に向かうようになってしまった。
糞パワハラ野郎のせいで何年も精神科病院漬けにされて、金が無いから薬やめたいのに、やめられない。
パワハラ被害に遭う⇒養生のため閑職に回される⇒ライン上にいないため存在を忘れられる⇒業績評価が微妙で昇進できない⇒昇進が遅れているから能力が無いとみなされる⇒不満が溜まり上司に反抗する⇒邪魔な社員扱いされる。
本業ではもう、こういう負のループにハマっているのは間違いない。
自分でメンタルのデフレ・スパイラルに落ち込んでいる。
自分で自分を追い込んでいるんです。
このごろ何度も頭のなかに、なぜか「限界状況」というワードが浮かぶようになってきました。
学生時代に習ったドイツの哲学者、カール・ヤスパース(Karl Theodor Jaspers)が提唱した概念です。
ヤスパースは、デンマークの哲学者で思想家のセーレン・キルケゴール(キェルケゴール。Søren Aabye Kierkegaard)の著書『死に至る病』などの影響を強く受けています。
『精神病理学総論』、『哲学』などの著書があります。
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「限界状況(英Limit Situation、独Grenzsituation)」とは、カール・ヤスパースの実存哲学における用語のひとつで、ヤスパース哲学の起点となった基本概念。現存在としての人間が、いかなる人間の力や科学技術の力をもってしても克服できない、逃れることのできない状況、すなわち、これは人間を限界づけている普遍的な状況である。死、苦、争、責、由来、偶然など、われわれの日常的現実を粉砕してしまう状況のことである。
限界状況とは、具体的には、自分はいずれ死ななければならない(死)とか、思い悩むことから逃れられない(苦悩)とか、自分は闘わなければならない(闘争)とか、あるいは、意識的にも無意識的にも罪を犯すことから免れない(罪責、原罪)ということである。これらの状況は普通の状況と異なり、変化することがなく、意志や努力によって変えることのできない、人間存在にとって巨大な壁となって立ちふさがる状況であり、人はただそれに衝突し、挫折するほかない。それは時代や民族、あるいはどのような個人にとっても免れることのない点で普遍的である。
限界状況の典型例が「自己の死」である。人は、それに突き当たることによって、各人がそれまで意識していた自己自身の存在に対する確実性の挫折を自覚させられる。ヤスパースによれば、人は普段は気晴らしなどにふけることによって、実はすでに前提として限界状況のうちにあるのだということを忘れてしまっているとしている。そして、壁に突き当たって挫折する経験は、人をして頼るべきもののない孤独と絶望とに突き落としてしまう。しかし、このように限界状況に直面したときにこそ「実存的まじわり」や「超越者との出会い」によって、人は実存に目覚めるのであると主張した。(Wikipedia)
自分が置かれている状況は、まさにヤスパースのいう「限界状況」ではないのか?
充実して、楽しく前向きに生きているときは意識することの無い「限界状況」。
他人にとっては取るに足らないことが、自分にとっては重大事になる。
まさか、越えることのできない壁に囲まれるなかで、実存哲学に目覚めようとしているのではないか?
本日の記事は以上です。