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【戦史研究9】服部卓四郎と辻政信 戦争拡大に決定的な影響を与えた悪魔的参謀『指揮官と参謀 コンビの研究』半藤一利 著

こんにちは、40代オッサンtrrymtorrsonです。

 

日中・太平洋戦争の起点をどこに設定するか?

僕は前の記事で、便宜上、満州事変(柳条湖事件)を起点にして、終戦までの出来事を列挙しました。

それ以前にさかのぼっていくと整理が複雑になってしまいます。

 

日露戦争の勝利によって、中国大陸に権益を獲得。

日本はアジア制覇の野望を抱いた。

その後、中国側の国権回復運動や政治的・軍事的緊張、張作霖爆殺事件。

そして冒頭の満州事変(柳条湖事件)につながっていきます。

 

僕は専門家ではないので、あくまで趣味の範囲で個人的な観点でライフワークとして1945年の敗戦に至る真相を究明したいというのが望みです。

その方法論として、これまでの8回のレポートで、軍人を中心に人物に焦点を当てる。また、時系列に並べた事件に焦点を当てるということを考えました。

もう一つ話の前提として、「敗戦」「戦犯」といった「歴史的結果」から事件や人物を極力評価しないこと。軍人を性悪説で見ないこと。

 

河辺正三と牟田口廉也の記事でも書きましたが、牟田口と並んで、悪魔的な軍人と言ってもいい事例が今回の服部卓四郎と辻政信です。

 

半藤一利さんの『指揮官と参謀 コンビの研究』という本があります。

読みやすくて、戦史研究の入門書にぴったりの本だと思います。 

 

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辻が参謀として参加した作戦、事件を見てみましょう。

 

◇1939年(昭和14年)ノモンハン事件 ◇1941年(昭和16年)マレー作戦 ◇1942年(昭和17年)シンガポールの戦い ◇1941年-1942年(昭和16年-17年)フィリピンの戦い ◇1942年(昭和17年)ポートモレスビー作戦 ◇1942年(昭和17年)ガダルカナル島の戦い ◇1944年(昭和19年)ビルマ戦線、拉孟・騰越の戦い

 

数々の主要な作戦に参加していますが、辻の積極果敢な作戦指導に反して、ほとんどの作戦が失敗、あるいは捕虜虐待など数々の重大な結果をもたらしています。

 

半藤さんの『指揮官と参謀 コンビの研究』で取り上げられているノモンハン事件では、辻が「満ソ国境紛争処理要綱」を起案し、関東軍司令官植田謙吉大将が承認しました。

これは「国境侵犯してくるソ連に一撃を加え、出鼻を挫く」というものです。

 

辻は自らの方針を拡大解釈し、ソ連に積極的に攻勢を仕掛けました。

ノモンハン事件は、結果的には、ソ連の戦力を甘く見たまま積極攻勢を指示し、圧倒的な物量の前に惨敗した作戦でした。

辻にはソ連の戦力を冷静に調査した形跡がありません。

 

当時の関東軍と陸軍中央の面々を確認しておきましょう。

関東軍は司令官植田謙吉大将、参謀長磯谷廉介中将、高級参謀寺田雅雄大佐、作戦主任参謀服部卓四郎中佐、作戦参謀辻政信中佐。

一方、陸軍中央の関係者の面々は、陸軍大臣板垣征四郎、参謀次長中島鉄蔵中将、作戦課長稲田正純大佐、作戦班長有末次中佐など。

 

本書によれば、関東軍でも大本営でも対ソ作戦で議論が紛糾しましたが、辻と服部が積極的に推進し、植田、磯谷、寺田がその勢いに押し切られました。

中央では、稲田らが現地の対応を批判した場面もあったが、板垣が「一師団くらい、いちいちやかましくいわんで、現地に任せてもいいではないか」の一言で容認しました。

 

その結果が前述の惨敗です。

日本軍が初めて近代戦で大敗北した戦いといわれます。

 

ソ連側の指揮官ジューコフは、日本軍を評して「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」と言ったそうです(『ノモンハンの夏』半藤一利)。

 

辻が関与した他の各作戦の概略も見ておきましょう。

 

マレー、シンガポール、フィリピンの戦いで、辻は「シンガポール華僑粛清事件」や「バターン死の行進」といわれる捕虜虐殺事件に関与したといわれます。

ポートモレスビー作戦やガダルカナル島の戦いは、完全な失敗に終わりました。

ビルマ戦線ではミートキーナ守備隊指揮官、水上源蔵少将に「個人宛ての死守命令」を発令。水上に自決を強要しました。

また拉孟・騰越の戦いでは、拉孟守備隊、騰越守備隊が海の孤島ではなく大陸で玉砕した珍しいケースとなりました。

 

辻は戦後潜伏、逃亡し、戦犯指名を逃れました。

文筆家、政治家として復活したが、ラオスで失踪宣告を受けました。

 

ここまで、服部にはほとんど触れていませんでしたね。

 

服部はノモンハンで辻の強硬論を利用して自らの作戦を遂行しようとしました。

またもう一つ特筆すべきは、辻と服部がノモンハン事件の責任を問われいったんは左遷されたものの、昭和16年に服部が参謀本部作戦課長、辻が作戦課戦力班長に就任。

このコンビが対米英開戦を強硬に推進するのです。

 

服部も戦後戦犯指名を逃れ、GHQに重用されます。

 

ここまで書いてきて思うのは、前回の記事で書いた牟田口廉也、今回の辻政信、この2人の好戦的な軍人がいなければ、日本の敗北への道が少し変わったものになったのではないかということ。

もう一つは、この2人だけではなく、彼らを重用した東條英機ノモンハンで辻の強硬論を容認した植田や板垣など、その時その時で辻や牟田口の独断専行を止められなかった上官達の責任は重大であったということです。

 

本日の記事は以上です。

 

 

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