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【戦史研究8】河辺正三と牟田口廉也 盧溝橋事件とインパール作戦『指揮官と参謀 コンビの研究』半藤一利 著

こんにちは、40代オッサンtrrymtorrsonです。

 

日中・太平洋戦争の起点をどこに設定するか?

僕は前の記事で便宜上、満州事変(柳条湖事件)を起点にして、終戦までの出来事を列挙しました。

それ以前にさかのぼっていくと整理が複雑になってしまいます。

 

日露戦争の勝利によって、中国大陸に権益を獲得。

日本はアジア制覇の野望を抱いた。

その後、中国側の国権回復運動や政治的・軍事的緊張、張作霖爆殺事件。

そして冒頭の満州事変(柳条湖事件)につながっていきます。

 

僕は専門家ではないので、あくまで趣味の範囲で、個人的な観点でライフワークとして1945年の敗戦に至る真相を究明したいというのが望みです。

 

その方法論として、これまでの7回のレポートで、軍人を中心に人物に焦点を当てる。また、時系列に並べた事件に焦点を当てるということを考えました。

 

もう一つ、「敗戦」「戦犯」といった「歴史的結果」から事件や人物を極力評価しないこと。軍人を性悪説で見ないこと、これを研究の前提にしたいと思っています。

 

しかし、どう贔屓目に見ても、性悪説で見なければならないのではないかという事例も存在します。今回がまさにその事例です。

 

半藤一利さんの『指揮官と参謀 コンビの研究』という本があります。

読みやすくて、戦史研究の入門書にぴったりの本だと思います。 

 

半藤さんは本書で、河辺正三と牟田口廉也のコンビを取り上げていますが、この2人こそ、のちのインパール作戦で戦死者26,000人、戦病者30,000人という多くの日本兵を悲惨な状況に追いやった張本人なのです。

独断専行により無謀な作戦を遂行した牟田口と、それを黙認した河辺。

本書では河辺と牟田口の、盧溝橋事件からインパール作戦に至るまでの関係性を浮き彫りにしています。

 

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【歴史研究2】の記事で、これからレポートを連載していくにあたり、1931年(昭和6年)の満州事変(柳条湖事件)を起点として、南京攻略までの事件を列挙していきました。

大幅に省略しますが、次のようなものです。

 

1931年(昭和6年)◇9月 満州事変(柳条湖事件)◇9月 日本政府、満州での事態不拡大方針を発表 ◇10月 関東軍、錦州を爆撃。戦線を拡大

 

1932年(昭和7年)◇1月 第1次上海事変 ◇3月 満州国建国

 

1933年(昭和8年)◇3月 日本、国際連盟を脱退

 

1935年(昭和10年)◇10月 広田弘毅外相、駐日中国大使に「中国での排日運動取り締まり」「満州国の事実上の承認」「共産勢力拡大阻止」の3原則を提示

 

1936年(昭和11年)◇12月 西安事件

 

1937年(昭和12年)◇7月 盧溝橋事件:北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突。日中全面戦争の発火点となる。衝突が起きたきっかけなど、解明されていない謎の多い事件。 ◇8月 第2次上海事変:海軍陸戦隊と中国軍が軍事衝突。日本は当初、陸軍2個師団を派遣して上海占領を目指したが、中国軍の激しい抵抗を受け、苦戦した。 ◇12月 日本軍、南京を占領

 

1931年から1937年までの事件を、中国との紛争を中心に列挙しました。

 

これを見ていくと、ザックリですが次のようなことが言えるのではないでしょうか。

満州では、日本が建国した満州国の権益保護のため、関東軍が防衛していた。

折から中国側は抗日運動の機運が盛り上がっているため、日中両軍の緊張状態が続いていた。

上海においても、上海にいた日本人居留民保護の名目で支那駐屯軍が展開していたが、軍事的緊張が高まり、第1次、第2次上海事変が勃発した。

日本政府も不拡大方針を出したかと思えば、広田外相のように中国に対して態度を硬化させたり、この数年、事態の収拾に手を焼いていたと思われます。

そして遂に南京まで進出していくのです。

 

そして、問題の1937年7月の盧溝橋事件です。

盧溝橋は北京郊外にあり、ここが日中間の軍事衝突の舞台となったのですが、なぜ北京郊外なのかという疑問がわきます。

満州国の境界線から少し離れていて、支那駐屯軍が随分内陸まで張り出していた印象を受けます。

言い換えれば、中国側と事を構える場所ではないような気がするのです。

 

しかし当時、付近を守備していた好戦的な連隊長、牟田口廉也大佐が上官の旅団長、河辺正三少将に無断で不要な軍事衝突を引き起こしました。

まったく必要のない戦闘を起こして、中国側を大いに刺激してしまったのです。

半藤さんによれば、この盧溝橋での牟田口の独断専行と河辺の黙認が、インパール作戦でも再現されたというのです。

 

上に書いたように、この盧溝橋事件が日中全面戦争の発火点になったのであれば、ある意味インパール以上に、牟田口の独断専行が招いた災厄は大きかったのではないでしょうか。

この2人がいなければ、多くの日本兵が命を落とさずに済んだのではないかというほど、余りにも果たした役割が重いと言わざるを得ません。

 

非常時に備えて戦略を練り、訓練し、作戦を遂行し、戦時には果敢に敵と戦うのが軍人の仕事ではあります。

軍人を性悪説で見てはいけないと思っていますが、しかし、その余りにも好戦的な牟田口廉也の言動を追っていくと、悪魔的と言わざるを得ません。

この人物を司令官として前線に登用し続けたことが、日本人全体にとって不幸であったと、暗澹たる気分にさせられます。

 

本日の記事は以上です。

 

 

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