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【戦史研究14】東條英機と嶋田繁太郎 権力の集中と天皇の信頼『指揮官と参謀 コンビの研究』半藤一利 著

こんにちは、40代オッサンtrrymtorrsonです。

 

僕は戦史の専門家ではありませんが、あくまで趣味の範囲で、個人的な観点でライフワークとして1945年の敗戦に至る真相を究明したいと思っています。

 

その方法論として、これまでの13回のレポートで軍人を中心に人物に焦点を当てる。

また、時系列に並べた事件に焦点を当てるということを考えました。

 

もう一つ、話の前提として、「敗戦」「戦犯」といった「歴史的結果」から事件や人物を極力評価しないこと。軍人を性悪説で見ないこと。

 

半藤一利さんの『指揮官と参謀 コンビの研究』という本があります。

読みやすくて、戦史研究の入門書にぴったりの本だと思います。 

 

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今回は東條英機嶋田繁太郎です。

 

東條英機は、1940年7月22日から1944年7月22日まで陸軍大臣、1941年10月18日から1944年7月22日まで内閣総理大臣を務めました。

航空機の増産などを進めるため軍需省を発足させ、1943年11月1日からその初代軍需大臣、1944年2月からは慣例を破って陸軍大臣と陸軍参謀総長も兼任しました。

そのほか内務大臣、外務大臣、文部大臣、商工大臣も歴任し、対米戦争中、権力を一手に集中させました。

 

首相在任中に対米開戦が決定され、1941年12月8日、真珠湾攻撃とマレー作戦を敢行しました。

結果的に東條は第二次大戦後の極東国際軍事裁判東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受け処刑されました。東條は、その果たした役割の大きさから、戦争指導者の筆頭として責任を取った形となったと思います。

 

一方、嶋田繁太郎は、1941年10月18日から1944年7月17日まで海軍大臣を務め、1944年2月からは、こちらも慣例を破って海軍軍令部総長を兼任しました。

嶋田は極東国際軍事裁判A級戦犯となり、判事11人中5人が死刑賛成でしたが、これを免れ終身禁固刑となりました。

 

この東條と嶋田のコンビが、大戦中どうだったかは、半藤さんの『指揮官と参謀 コンビの研究』を読んでください。

 

2人に対する否定的な評価はともかく、特筆したいのは、昭和天皇の東條と嶋田に対する深い信頼です。半藤さんもこれには感服せざるを得なかったと書いています。

 

半藤さんは本書で『昭和天皇独白録』から引用しながら次のように書いています。

まず東條について。

「元来東条といふ人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝わらなかつたことと又憲兵を余りに使ひ過ぎた」

「東条は一生懸命仕事をやるし、平素云つていることも思慮周密で中なか良い処があつた」

 

また、東條内閣の末期、岡田啓介・米内光政らの説得によって、伏見宮が嶋田海相の更迭を昭和天皇に勧告しました。

このときのことを天皇はこう語っています。

 

「この時私は伏見宮に対し、二つの条件を云つた、即この人事の為に、東条内閣を倒す事は困るといふ事、私の意見で嶋田を止めさせる事は困るといふ事である。(中略)嶋田の功績は私も認める。彼が下僚から嫌はれたのは、余り智慧があり、見透しがいいので、東条と話す時でも、充分議論せず、直に賛成して終ふ、その反面下僚に対して相当強硬であつた事が、不評判にした事と思ふ」

 

しかし結局、嶋田は海相を辞任しました。

そのことについても昭和天皇は語っています。

「この時東条は嶋田に対し、私が信任しないかの様に話したらしい、それで嶋田も妙にとつたらしいが私は寧ろ前述の通り彼を信任していたのだ」

 

昭和天皇は、サイパン陥落、敗戦必至という状況下にあって、なお東條内閣の交代を望んでいなかったことが、『昭和天皇独白録』で明らかなのです。

驚嘆せざるをえなかった理由がそこにあると半藤さんは書いています。

東條も嶋田も、昭和天皇の信頼が厚い忠臣でした。

 

もう一つ、東條について特筆すべき点は、内大臣木戸幸一が、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、また東條は天皇の意向を絶対視する人物であったので、昭和天皇の意を汲んで「戦争回避にもっとも有効な首班だ」と判断し、近衛の後任首相に東條を推挙したことです。

 

これに対し昭和天皇が「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたといいます。

木戸は後に、次のように述べています。

「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。(東久邇宮以外に)宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりも抜きん出ているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった」。

 

東條は皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示されますが、それが叶わず、開戦日の未明、首相官邸の自室で一人皇居に向かい号泣しながら天皇に詫びたといいます。

 

東條と嶋田の在任中、彼らの戦争指導に問題があったかもしれない。

 

しかし、返す返すも、ミッドウェー海戦の敗北とガダルカナル争奪戦の敗退以降、形勢逆転が困難となってしまったのは、2人にとって不運としか言いようがないと思います。

対米戦に勝っていたら、彼らは英雄になっていたはずです。

 

本日の記事は以上です。 

 

 

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