こんにちは、40代オッサンtrrymtorrsonです。
僕は戦史の専門家ではありませんが、あくまで趣味の範囲で、個人的な観点でライフワークとして1945年の敗戦に至る真相を究明したいと思っています。
その方法論として、これまでの15回のレポートで極東国際軍事裁判(東京裁判)の被告人やGHQの戦争犯罪人リストからさかのぼって、軍人をピックアップして焦点を当てる。また、時系列に並べた事件に焦点を当てる。こういうことをやってきました。
もう一つ、上と矛盾するようですが「敗戦」「戦犯」といった「歴史的結果」から事件や人物を極力評価しないこと。軍人を性悪説で見ないこと。これを話の前提にして書いてきたつもりです。
今年も8月15日の終戦の日を迎えました。
今年は戦後77周年となります。
昨年1月、作家の半藤一利さんが亡くなられました。
その半藤さんほか、保阪正康さん、中西輝政さん、戸髙一成さん、福田和也さん、加藤陽子さんという戦史に造詣の深い6氏の座談会を収録したのが、文春新書の『あの戦争になぜ負けたのか』です。
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2006年5月発行の本書ですが、まさにタイトル通り「あの戦争になぜ負けたのか」というテーマについて、各氏が縦横無尽に語り合っています。
対米開戦の目的は何だったのか、ヒトラーとなぜ同盟を組んだのか、海軍の致命的欠陥、陸軍エリートの過ちなど。
8つの視点から日本の敗戦の真相に迫る内容となっています。
この座談会が第一部。
そのあとさらに読みごたえがあるのが第二部です。
第二部は座談会で語り切れなかった事柄について各氏がそれぞれ論考を寄せています。
このなかでも特に必読なのがやはり半藤さんの論考で、近衛文麿とルーズベルト大統領の対米戦争回避を賭けた首脳会談について論じたものです。
近衛は開戦直前の昭和16年10月まで内閣総理大臣を務め、その在任中の昭和16年の夏に上の首脳会談の途を探るのですが結果的には実現しませんでした。
近衛は日本が日中戦争から日米開戦に至る要所要所で政府の中枢にいて重要な役割を担っていましたが、敗戦後、極東国際軍事裁判の戦犯被告人28名のなかに彼の名はありませんでした。
GHQの逮捕命令が出たときに、青酸カリを服毒して自決しました。
ルーズベルト大統領との首脳会談を決意した近衛でしたが、半藤さんによれば実現寸前で2度も阻まれてしまいます。
1度目は日本軍の南部仏印進駐で、この事件がコーデル・ハル国務長官をはじめ米国側の態度を著しく硬化させてしまいます。
それでも日米外交筋は粘り強く交渉の途を探り、ついにはアラスカのジュノーでの会談が合意され人員や船の手配まで進められました。
しかしその希望を無残にも叩き壊してしまったのは、ほかならぬ日米の新聞報道に煽られて過激化した国内世論だったのです。
日米交渉の内容が日米の新聞にもれてしまいます。
「近衛が米国に泣きを入れた」と対米強硬派の右翼や陸軍参謀や言論人が「近衛の軟弱外交をやめさせろ!」「近衛を殺っちまえ!」と激昂し、のみならず一般国民までが米国に対する敵愾心を燃え立たせました。
とうとう米国側は「日本の国内に日米協調の成功を妨げようとする力のあることを認めざるを得ない」と交渉のチャンネルを閉ざしてしまいます。
明治、大正期を経て日中戦争に至り一歩一歩対米開戦へと歩を進めてきた日本にとって、それを止めるのがいかに困難だったか、この近衛の日米交渉失敗のエピソードが全てを象徴しているように思われます。
本日の記事は以上です。