こんにちは、40代オッサンtrrymtorrsonです。
本業のサラリーマンに復職して8か月が経ちました。
仕事が回らなくなって挫折して休職。その休職生活の中で、猛烈に本を読んでいこうと決めました。
休職生活とは自分を見つめ直す内省生活です。
何か始めてみようと思いブログを書き始めました。
記事数は300記事を超えました。
そして「ライフワークとして娯楽とアウトプットを兼ねた知的生産活動に取り組むことが、中年オッサンとしての使命である」と今後の目標を定めました。
読んだ本のレビューを2020.2月に初投稿して現在70記事程度。
とにかく物凄い量多読してみようと思い、「ブクログ」というアプリで蔵書管理しています。蔵書自体は100冊超えました。
今年100冊読むことを目標にしてきました。3日に1冊くらいのペースです。
しかし、仕事が忙しくなり糞暑い夏場にペースが落ち、100冊達成は困難になりました。
現在47冊で、50冊到達がやっとのようです。
齋藤孝さんの『語彙力こそが教養である』には次のように書いてあります。
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なぜ日本人の語彙力は低下してしまったのでしょうか?
その原因は素読文化の減衰にある、と私は考えています。
素読とは、意味や内容を詳しく理解する前に、とりあえず声に出して本を読むことです。
意味をじっくり考えて頭で読む「精読」とは違い、身体を使って読むため私は「身読(みどく)」とも呼んでいます。
(文章を味わって読むことは「味読(みどく)」と言われています)
幕末・明治初期まで、日本ではごく普通に素読が行われていました。
寺子屋では年端もいかない子どもたちが、師範が読み上げた文章に続いて「子曰く~」と『論語』を読み上げていたのはご存知でしょう。
それに、幸田露伴や夏目漱石といった漢文の知識を有する文豪たちもまた、「素読世代」と言っていい時代の人たちです。
一方で、今の学生に素読経験の有無を聞いても、「齋藤先生の授業が初めてです」と返されるばかり。
大人たるもの、自分の好きな文章くらいはそらでいえるべきだと思うのですが、そうした習慣がまったく身についていないのです。
本の読み方には「素読」「精読」「味読」「速読」といろいろな方法があるそうです。
齋藤先生の指摘の通り、確かに最近は素読の習慣が無くなったのかもしれません。
素読によって、自分の好きな文章をそらでいえるようになる。
それは、読んだ本を自分の血肉にする近道かもしれません。
今年の読書量が伸びなかったのは後半バテてきたからですが、同じ本を2回、3回読んでいたこともあります。
その本のポイントを捕まえるために、齋藤先生のいう「精読」をしていました。
来年はもっと多くの本を読めるように、「素読」「精読」「味読」「速読」を駆使していきたいですね。
本日の記事は以上です。
☟『語彙力こそが教養である』齋藤孝著(角川新書)