こんにちは、50代オッサンtrrymtorrsonです。
半藤一利さんの名著『指揮官と参謀 コンビの研究』をもとに、太平洋戦争を総括する第12回目。
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今回取り上げるのは、沖縄戦の司令官、牛島満と、その参謀の長勇(ちょういさむ)です。
牛島は鹿児島、長は福岡の人で、ともに「九州男児」ですね。
太平洋戦争末期の沖縄戦が、住民を巻き込んだ悲惨な戦場となったことは言うまでもありません。
毎年、終戦の日が近づくと各放送局が沖縄戦の悲劇を取り上げます。
しかし、その沖縄戦で戦ったのはどういう軍隊だったのか?
沖縄戦の日本軍の総司令官がどういう人物で、どういう作戦で米軍を迎え撃ったのかという話は、ほとんど皆無です。
沖縄防衛軍の総司令官が、温厚な性格で陸軍士官学校校長など教育畑を歩んだ牛島満だったということは、あまり知られていないのではないかと思います。
沖縄防衛に当たった第32軍は大戦末期に編成されました。
その中核は北陸の精鋭部隊である第9師団でしたが、これが台湾防衛に引き抜かれてしまいました。
その後、米軍は台湾を飛び越えて沖縄に侵攻したため、第9師団は戦うことなく終戦を迎えることとなりました。
さて、牛島満陸軍中将は陸軍士官学校のエリートで、南京攻略戦で部隊を率いるなど主に日中戦争に従軍、各赴任地では常に配慮が行き届いた優秀な指導者として記録されています(Wikipedia参照)。
Wikipediaの牛島の項には、彼の賛否も含めて書き尽くされているのでこれ以上引用は控えます。
では、半藤さんは、この牛島満の章をどのように描いているのでしょうか?
半藤さんは次のような書き出しで始めています。
日本陸軍の『統帥綱領』は、戦場における将帥のあり方として、
「将帥は超然として大勢の推移を達観せよ」
の一行を示している。そして、具体例として、日露戦争における満洲軍総司令官大山巌元帥と、総参謀長児玉源太郎大将との絶妙のコンビをあげることを常としたという。
満洲軍の作戦用兵のいっさいを児玉にまかせきった大山は、終始悠々超然として大勢を観望していた。つまり、将の将たるものは、最も信頼できる優秀な幕僚長を選びだし、 かれに用兵作戦のすべてを一任し、その能力を最大限に発揮させ、自分は最終的決断のみを行って全責任をとる。それを日本陸軍は将帥道の理想としたものである。一言でいえば、指揮官たるの条件は威徳(威厳と人徳)にあるとした。実は、それは誤った指揮官像であったのであるが、それでよしと日本陸軍は考えていた。
太平洋戦争最後にして最大の陸の戦いとなった沖縄防衛戦では、この誤った理想形が見事なほど具現した。そしてその結果としてもたらされたものは何であったか。沖縄県民が惨たる戦闘にまきこまれるという悲劇であった。
「指揮官たるの条件は威徳(威厳と人徳)にあるとした。実は、それは誤った指揮官像であった」
半藤さんは、日露戦争の英雄であった大山巌元帥と児玉源太郎大将に痛烈な皮肉を浴びせた後、大山や児玉になぞらえて沖縄防衛戦の作戦指導を痛烈に批判しているのですね。
誤解を恐れず言えば、もうこれ以上ないという侮蔑を込めた痛烈な書き出しです。
沖縄防衛の人事構想を考えたのは、当時の参謀次長後宮淳大将です。
半藤さんによれば、牛島を悠々超然の大山に、長を勇猛果敢の児玉に重ね合わせたわけで、大本営が考え得る最高の人事であったのでした。
当初この沖縄防衛の布陣は大いに士気が上がったそうですが、主任参謀の八原博通大佐は長参謀長とウマが合わず、さらに第9師団が引き抜かれてしまうことで、徐々に暗雲が漂うようになったのです。
沖縄戦の戦術的な最大の争点は以下のものでした。
長参謀長が主張する、「上陸地点で迎え撃つ水際作戦」でいくのか?
八原大佐が主張する、沖縄の地形を利用した「縦深な防御陣地による持久戦」でいくのか?
牛島司令官は、水と油の両者に対して、調整することも意見を述べることもなかったということです。
結果的には八原大佐の持久戦が採用されました。
これに大本営や海軍が猛反対しましたが、長参謀長は第9師団を引き抜かれた恨みからこれを無視。
その後、二つの飛行場を奪われて本島中央に米軍の陣地構築を許し、連合艦隊との挟撃による攻勢の機会を逃してしまいました。
八原大佐はさらに南部に後退して持久戦を強行。
ここで多くの沖縄県民を戦場に巻き込んでしまうことになります。
沖縄での作戦指導の失敗は、軍中央と現地軍、さらに司令官と参謀長と作戦主任との意思疎通が破綻していたことにありました。
彼らは軍人として立派な威厳と人徳を備えていました。
しかし結果として、どうやって米軍を阻止し沖縄を防衛するのかという目的に対する働きがまったく不十分でした。
牛島中将はなぜ、かつてのような統率力を発揮できなかったのでしょうか?
50代後半になって、作戦指導を放棄して、軍人としての、教育者としての大山然とした威徳のみにあぐらをかいてしまった牛島司令官。
半藤さんはこの章で、おおむね以上のようなことを書いておられます。
牛島司令官と長参謀長は、摩文仁の軍司令部で古式にのっとって切腹自決。
八原大佐は米軍の捕虜になったといわれています。
半藤さんによれば、本島南部の持久戦に巻き込まれて死亡した沖縄県民は、軍関係1万4806名、一般住民15万698名であったそうです。
本日の記事は以上です。
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