こんにちは、40代オッサンtrrymtorrsonです。
日中・太平洋戦争の起点をどこに設定するか?
僕は前の記事で便宜上、満州事変(柳条湖事件)を起点にして終戦までの出来事を列挙しました。
それ以前にさかのぼっていくと整理が複雑になってしまいます。
日露戦争の勝利によって、中国大陸に権益を獲得。日本はアジア制覇の野望を抱いた。その後、中国側の国権回復運動や政治的・軍事的緊張、張作霖爆殺事件。
僕は専門家ではありませんので、あくまで趣味の範囲で、個人的な観点でライフワークとして1945年の敗戦に至る真相を究明したいというのが望みです。
その方法論として、これまでの6回のレポートで、軍人を中心に人物に焦点を当てる。また、時系列に並べた事件に焦点を当てる。ということを考えました。
もう一つ話の前提として、「敗戦」「戦犯」といった「歴史的結果」から事件や人物を極力評価しないこと。軍人を性悪説で見ないこと。
半藤一利さんの『指揮官と参謀 コンビの研究』という本があります。
読みやすくて、戦史研究の入門書にぴったりの本だと思います。
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本書の二章目で永田鉄山と小畑敏四郎のコンビが取り上げられています。
大正10年10月27日、3人の将校が南ドイツに宿をとりました。
スイス駐在武官の永田鉄山少佐、ソ連駐在武官の小畑敏四郎少佐、それと岡村寧次少佐です。
3人は第一次大戦の結果から日本の国防に危機感を抱き、「これから日本の現状打破をどうすべきか」を話し合いました。
これがいわゆるバーデンバーデンの密約です。
彼らは何を目標に定めたのか?
(1)陸軍中央の長州閥の解消、人事刷新(2)軍制改革、総動員体制確立です。
彼らを中心に陸軍十五期以下の「二葉会」という若手軍人の研究会が結成されました。
メンバーは、河本大作、山岡重厚、土肥原賢二、板垣征四郎、小笠原数夫、磯谷廉介、東條英機、渡久雄、工藤義雄、松村正員。
のちに、十八期以下のメンバーと、二葉会、木曜会が合流して「一夕会」を立ち上がります。
山下奉文、岡部直三郎、石原莞爾、村上啓作、鈴木貞一、鈴木率道、牟田口廉也、岡田資、土橋勇逸、武藤章、田中新一、富永恭次などがいました。
土肥原、板垣、東條、鈴木(貞一)、武藤らは、敗戦後、極東国際軍事裁判で起訴されることになります。
河本は、張作霖爆殺事件の首謀者。
石原は満州事変の首謀者。
山下はマレー作戦の戦果で「マレーの虎」と呼ばれたが、のちのフィリピン防衛戦で降伏し、マニラ軍事裁判で絞首刑に処せられます。
牟田口はインパール作戦を指揮し悲惨な敗北を喫しました。
のちに軍部の主要ポストの多くを占めていく面々です。
ある意味、日本を敗戦に導いていったキーパーソンの集合であり、これらの「研究会」は、後々極めて重要な意味を持つものです。
バーデンバーデンの密約においては、派閥の解消や軍制改革が目標でしたが、その後研究会メンバーは、張学良に統治される満州、蒋介石の国民党勢力、ソ連の圧力をどうするかということが論じられました。
このまま座視していては、せっかく日露の戦いに勝ち、獲得した権益が無になるかもしれない。満州を軍事的に占領して、真の高度国防国家を建設しなければならない・・・。
永田と小畑の会合から始まった彼ら研究会の野望は、満州国の建国に至るまで、ほぼ達成されました。しかしその後、対中政策と対ソ政策で、真っ二つに分かれることとなります。
「対ソ予防戦争論」を唱える小畑と、「対中一撃論」を唱える永田の対立です。
この対立は尾を引き、「対ソ」戦略優先か「対中」戦略優先かで、軍部は混迷を極めていくことになります。
ここまで書いてきて思うのは、一つの疑問は、「対ソ」戦略優先か「対中」戦略優先かという二択に対する明確な回答を出せなかったことが、そのまま敗戦の遠因となっていったのではないかということ。
もう一つの疑問は、「対ソ」か「対中」かという議論だったのが、なぜ東南アジアへの南進政策や対米英開戦へと方針転換していったのかということです。
ソ連、中国、米国、英国と、四方の大国を全て敵に回すという愚を犯していくことになるんですね。
本日の記事は以上です。