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【戦史研究2】敗戦を運命づけた起点はどこか?時系列に事件を並べてみる

こんにちは、40代オッサンtrrymtorrsonです。

 

本業のサラリーマンに復職しました。

 

約2か月前に、ホリエモン著『多動力』に書いてある「レアカードになる方法」を参考にして、僕の自称肩書きを下記のように列挙しました。

各事業の進捗状況を定期的に整理しています。

 

【本業のサラリーマン職×○○職(実家の家業のこと)×3児の父(ほとんど嫁さん任せ)×休職経験者×個人投資家(収益はごく少ない)×ブロガー(成果は出ていません)×写真家(写真AC(Photo AC)に投稿しているだけ)×作家(Kindle本を1冊出しただけ)×書評家(読書量は少ない)×映画評論家(ブログでレビューを2本書いただけ)×戦史研究家(読んだ本の内容ほとんど忘れた)×YouTuber(コピー動画を投稿しているだけ)×ラーメンライター(近所のラーメン屋さんに行って食べログに書くだけ)】 

 

このなかで、僕は「戦史研究家」という肩書を作りました。 

戦史研究家」の基本的なスタンスは次の通りです。 

 

■ 戦史研究家

ここで言う戦史とは太平洋戦争史です。

僕は10年以上前、光人社の戦記ものなどをよく読んでいました。

この戦争で一説には日本人が約300万人亡くなったとされ、最終的に極東国際軍事裁判で28名が起訴され7名が絞首刑に処せられました。

 

戦前から敗戦に至るまで、歴史上重要なターニングポイントをいくつも経て、無数の重要な政策・戦略判断が行われ、また個々の戦場でも夥しい戦術判断がありました。

いわゆるA級戦犯に責任を負わせる、軍部が独走したなど、物事を単純化してはいけません。実際いろんな議論があります。

 

かつて日本人が白人アメリカとガチで戦って敗れた。完膚なきまで叩きのめされ、悲惨な負け方をした。負けたあとも、精神の根幹を巧妙に支配された。自分のことのように悔しいが、この敗戦があったから今の日本がある。

 

とりあえず、A級戦犯などの自伝、小説、検証本その他たくさん読んでみましたが、読んだ本の内容をほとんど忘れてしまいました。

途中で挫折しています。

結局、なぜあれほどの悲惨な敗戦を迎えなければならなかったのか未だ謎です。

 

そのうち僕独自の、個々の人物、個々の戦場を網羅した「太平洋戦争相関図」を作成するのが目標です。

歴史家や戦史研究の専門家、そのほかにも膨大な知識を持つ人はざらにいると思いますが、僕はあくまで趣味の範囲で、個人的な観点でライフワークとして真相を究明したいというのが望みです。 

 

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先日「復職して副業が崩壊の危機に瀕してきた」という記事を書きました。

本業に復帰して段々仕事が増えて拘束時間も長くなってくると、趣味や副業に割く時間が厳しくなってきます。

趣味や副業にいろいろ手を広げていると、「ゾンビタスク」(ToDoリストのなかに残っていて、放置されているタスク)が増えてくる。

これの突破口として「ブレイクダウン」や「ボトムアップ」、「マインドマップ」という方法があります。

 

戦史研究という取り組みでは、個々の人物、個々の戦場を網羅した「太平洋戦争相関図」を作成するのを目標にしていますが、目標が巨大で曖昧すぎて作業が進捗しません。

そこで、「ブレイクダウン」の方法を用いて、日中・太平洋戦争に関する人物、事件、戦場をバラバラに分解します。

今回は1931年(昭和6年)以降の事件を、時系列に頭出しします。

 

■ 1931年(昭和6年)以降の事件 

1931年(昭和6年)◇9月 満州事変(柳条湖事件):柳条湖の満鉄線爆破を口実に関東軍が軍事行動を開始 ◇9月 日本政府、満州での事態不拡大方針を発表 ◇10月 関東軍、錦州を爆撃。戦線を拡大 ◇10月 国際連盟理事会、満州撤兵勧告

 

1932年(昭和7年)◇1月 第1次上海事変 ◇2月 リットン調査団来日:満州をめぐる日中の紛争を調査するため国際連盟が派遣 ◇3月 満州国建国 ◇5月 5・15事件:海軍将校、陸軍士官候補生、民間の右翼らが首相官邸や内相官邸、警視庁などを襲撃。犬養毅首相を殺害した。経済不況、政治不信が背景とされ、逮捕された実行者に国民から多数の減刑嘆願が寄せられた。 ◇9月 日本、満州国を承認

 

1933年(昭和8年)◇2月 国際連盟満州国不承認などの対日勧告案を42対1で可決。日本の松岡洋右代表は議場から退場。 ◇3月 日本、国際連盟を脱退

 

1934年(昭和9年)◇3月 満州国帝政を実施:皇帝は溥儀(清国最後の皇帝)、議会はなく、関東軍司令官の指導のもと、日本人官僚が行政の実権を握る

 

1935年(昭和10年)◇10月 広田弘毅外相、駐日中国大使に「中国での排日運動取り締まり」「満州国の事実上の承認」「共産勢力拡大阻止」の3原則を提示

 

1936年(昭和11年)◇2月 2.26事件 ◇5月 軍部大臣現役武官制復活:陸軍大臣海軍大臣は現役武官と限定することで、軍部が政策に不満を持てば、組閣を阻止したり、内閣を崩壊させたりすることが可能になった。 ◇11月 日独防共協定締結 ◇12月 西安事件:中国国民政府の蔣介石主席を部下の張学良が監禁し、内戦停止と挙国一致の抗日運動を求める。

 

1937年(昭和12年)◇7月 盧溝橋事件:北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突。日中全面戦争の発火点となる。衝突が起きたきっかけなど、解明されていない謎の多い事件。 ◇8月 第2次上海事変:海軍陸戦隊と中国軍が軍事衝突。日本は当初、陸軍2個師団を派遣して上海占領を目指したが、中国軍の激しい抵抗を受け、苦戦した。 ◇12月 日本軍、南京を占領。南京事件が起こる。

 

これは、僕が太平洋戦争に興味を持っていた2009年、ネットの「時事ドットコム」の終戦特集記事をプリントアウトして保管していたものからの抜粋です。

 

日中の泥沼の抗争から、日米が激突した太平洋戦争までは一連の流れとして捉えるのが通例と思います。

1945年の敗戦という結果を知っている者から見ると、すべての事件が敗戦を決定づけていった失政、失策だというふうに思えてしまいます。

しかし、たとえば満州での満鉄爆破という一つの事件が、最終的に数百万人の同胞の命を失う引き金になったと、当時想像できたでしょうか。

一つ一つの事件が、それぞれ本を一冊書けるほどの内容があります。

 

一つ一つの事件を丹念に追っていったとき、1945年の敗戦を運命づけた起点はどこか、という論点が湧きます。

時事ドットコム」では、紙面の都合か、満州事変を起点としています。

しかし、前の池上彰さんの記事でも書いたように、極端ですが、日本が日露戦争で勝利してアジア制覇の野望を抱いたこと、あるいは、近代国家として歩を進めた明治維新まで遡って起点とすることも可能かもしれません。

 

本日の記事は以上です。

 

 ☟『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』戸部良一他(中公文庫) 

 

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